環境系
ブラック企業の社内環境情報に関するあるある、特徴です。
社内のいたるところに謎の格言
ブラック企業の定番で、あるあるというより、
これがあったら、そこはまず間違いなくブラック企業だ、というブラック判断の基準のひとつと思っていてください。
社内の壁や机、扉など目につくところに大量に根性論系の謎の格言が貼ってある
これはほぼ間違いなくブラック企業のサインです。
「眠るのは死んでからできる」
「家はここ」
「労基は敵」
「365日24時間仕事だけ」
的なもはや何を言ってるのかわからないような標語が社内に貼ってある場合、早急に逃げ出した方がよいです。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。
1987年(昭和62年)6月19日、運輸省航空事故調査委員会(以下、事故調)は事故調査報告書を公表した。1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切修理による破損が事故原因と推定されている。
事故原因を巡っては様々な疑問点や異説が提起されていたため、運輸安全委員会は報告書公表から24年後の2011年(平成23年)7月29日、事故調査報告書の解説書を公表した。
飛行計画
JAL123便として羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだのち、伊豆大島から西に巡航、和歌山県東牟婁郡串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着する予定であった。
使用された JA8119の当日の運航予定は、
503、504便で羽田 - 千歳線1往復
363、366便で羽田 - 福岡線1往復
123、130便で羽田 - 伊丹線1往復
12日朝から5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
搭乗にはボーディング・ブリッジを使用せず、地上からタラップで昇った。
18時04分、乗客乗員524人を乗せたJA8119はJAL123便として定刻より4分遅れで羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に滑走路15L(旧C滑走路)から離陸した。
緊急事態発生
はじめに残っていた音声は、操縦席と客室乗務員とのやり取りだった。
18時24分35秒頃、伊豆半島南部の東岸上空(静岡県賀茂郡河津町付近)を巡航高度24,000フィート (7,300 m)へ向け上昇中、23,900フィートを通過したところで衝撃音が発生し、客室高度警報音が1秒間に3回鳴動した。続いて機長が「まずい、なんか爆発したぞ」と発言。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。
25分、機長は「スコーク7700(非常事態)」を発信し、東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と指示。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。
この時機体は、垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流出し、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不能になった。
27分、異常発生からわずか3分足らずで航空機関士が「ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全て喪失)」と発出(コールアウト)した。
機長らは異常発生直後から墜落まで、操縦不能になった理由を把握できていない模様であった。油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みていた。
同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。DFDRには機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度の動きが記録されていた。
31分40秒、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と酸素マスク着用を提案[注釈 10]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。
40分、航空機関士の提案で、バックアップシステムを用いてランディング・ギア降ろした。機体は富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000フィート (6,700 m)から6,000フィート (1,800 m)へと降下。その後、羽田方面に向かうものの、埼玉県上空で左旋回し、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。機体はロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
46分、機長が「これはだめかも分からんね」と発言。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していく。47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000フィート (1,800 m)前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。
49分、機首が39度に上がり、速度は108ノット (200 km/h)まで落ちて失速警報装置が作動した。このころから機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が「あーダメだ。終わった。ストール(する)」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(最大出力)、マックパワー、マックパワー」などと指示していた。
50分、「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と激励の発言。機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」に対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。機長が「パワーでピッチはコントロールしないとだめ」と指示。エンジン推力により高度を変化させる操縦を始めたと思われるが、左右の出力差で方向を変えた形跡は見当たらなかった。速度が頻繁に変化し不安定な飛行が続いたため、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。
51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定し始めた。
54分、クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル (40 km)西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180ノット (330 km/h)まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。
55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ10(度下がっている)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
55分12秒、フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ!」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との声に混じって副操縦士が「フラップアップ、フラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000フィート (3,000 m)を切っていた。
56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と指示し続けた。
墜落
クルーの必死の努力も空しく機体は降下し続け、56分14秒に対地接近警報装置(GPWS)が作動。17秒頃にはわずかに機首を上げて上昇し始めたが、56分23秒に右主翼と機体後部が尾根の樹木[注釈 15]と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h)以上に達していた。
接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に70度傾いた。56分26秒には右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端と垂直・水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落、56分28秒には機体後部が分離した。機体は機首を下げながら前のめりに反転してゆき、18時56分30秒に高天原山の群馬県側北東の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。CVRには23秒と26秒頃に衝撃音が記録されていたが、23秒の衝撃音の直前には「PULL UP(上昇せよ)」との警告音声とともに、機長の「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声が記録されていた(報告書では機長の発言は「判読不能」とされていた)。
墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。一方、56分28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた乗客4名は奇跡的に生還できた。
位置情報の混乱による救難活動の遅れ
地上からは、群馬、長野、埼玉の各県警が墜落現場の捜索にあたった。上空から米軍や航空自衛隊が山中の炎を確認していたが、墜落現場一帯は江戸時代は鷹狩のため一般の入山が禁じられていたとされる場所で、1963年(昭和38年)営林署が唐松の植林を行った以外は人の立ち入りの無い原生林であった。それに加え、レーダーやTACANの測位位置の誤差、事故当日は月齢25.1の闇夜であり、地上捜索による墜落現場の特定も困難を極めた。
20時21分、長野県警臼田警察署(現・佐久署南佐久庁舎)のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報。21時39分、埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見し、長野県警は12日深夜、墜落現場は群馬県側の山中であると発表した。
しかし、氏名不詳の110番通報「長野県北相木村のぶどう峠付近に墜落した」や、日本航空広報が12日22時に発表した「長野県南佐久郡 御座山北斜面(墜落現場から北西10km)」、運輸省はレーダー消失地点の「北緯36度02分、東経138度41分(墜落現場から北約3.7 km)」の他に「御座山北斜面」など情報が錯綜し、複数の位置情報で地上の捜索は混乱した。
その結果、消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊など、地上からの捜索に時間がかかり、21時30分の群馬・長野の陸上自衛隊への派遣要請から11時間30分後の翌朝9時まで現場に到達することはできなかった。
解説書では、TACANの測位は乗務員の土地勘などでも精度が変わると指摘し、12日夜から13日朝までの各航空機の測位結果を表と地図で示した。
海上では、事故当初ドアが壊れたとの情報があり、乗客が機外に吸い出された可能性も考えられたことから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁の巡視艇3隻が、駿河湾周辺の捜索を行った。